他人の問題を自分の問題と考える。
他人の苦しみを自分の苦しみに置き換える。
いや、本当に自身の苦しみとして、感応できる。
これが仏や菩薩といわれる方だと思う。
引き換え、自分の日暮はどうか。
如何に痛みに鈍感で、無慈悲で、如何に自分中心で、他を否定し、
どこまでも自分が正しく、有能であるとかたくなに信じきっている。
愚かというより、表現のしようがない。それが本当の自分自身。
その変わり得ない自分を、全く無力な自分を憐れみ給いて、建てられた、
弥陀の本願。選択本願のただ念仏。
智慧の念仏により、
全く、無力な自分を知らされつつ、
少しは痛みに敏感になりたいと思うのである。
15.12.30追記)華厳経では、善財童子という菩薩がたくさんの善知識を訪ねるのだが、
善知識は、悉く、「衆生のために」、「衆生のために」と繰り返します。
なぜそんなに繰り返すのだろう、と思ったのですが、おそらく、それは、
衆生が心の底で「助けてくれ」、「寂しい」、「むなしい」と叫んでいるのが
聞こえるからだと味わいました。諸仏、菩薩方は、衆生の苦しみを自分のこととして
感じ、受け止めることができる、それゆえに、何とかして、衆生の苦を抜きたいと
活動されるのだと思います。そういう感応力のある人は、とても魅力的であり、
やさしく、時に厳しく、しなやかであり、
柔軟な心を持った人といえるのだと思いました。