僕は、本当に死に掛けたことがあります。
これは、身体の不調というか、心の不調、
つまり、心が死に掛けたと思っています。
厳密にいうと、自我がわたしを襲ってきた、といえるかもしれません。
自分が自分を否定する。それが繰り返され続ける。
延々と。
無意識の自分だから、正直、どうしようもなかったのです。
どうしたらいいんや。
この先、どうやって生きていったらいいんや。
なんで、こんなことになってしまったんや。
こればっかり、終日考えて、心はほとんど死んでいて、
身体がただ生きている、こういう状態が5ヶ月くらいありました。
その間は、記憶力も著しく低下し、あまり覚えていません。
でも、不眠にはならなかったです(苦笑)
そこに、ひかりが射した。
これが自分にとっての、「浄土の御教え、ただ念仏」であります。
おそらく、浄土真宗の弥陀の本願、念仏に遇っていなければ、
本当に僕は死んでいたでしょう。
少なくても、このブログを書かせていただく、ということは絶対になかった。
なぜなら、真宗の教えを一度捨てたのですから。
闇が深ければ深いほど、ひかりを求める。
ひかりを、ひかりをと探すけれど、見つからない。
どうしたら、いいんや。そればっかり。
そのどうにも立ち行かなくなり、立ち止まったとき。
汝はどうにもならんまま、でええんや。引き受ける。
その心に響く声が聞こえたとき、あー、もうこれでいいんや、
と力が抜けたような、そんな感じがしています。
影を見れば、ひかりが来ていることがわかる。
ひかりは、もうすでに来ていた。
わたしを見捨てず、憶念してくださっていた。
どうにもならないものが、どうにか生かされていること自体、
もう既にどうにかしてもらっているではないか。
闇が深ければ深いほど、ひかりが射したとき、驚き、仰ぐ。
自分は自分でいいんや。
何もわからないなら、わからないままでいいんや。
任せよ、という方にそのまま任せればいいんや。
自分で分別しなくてもいいんや。
自分自身からの自由。まことの自由。そくばくの業からの自由。
障りと感じなければ、障りはあっても、障りではない。
親鸞聖人は、それを無碍の一道と教えてくださいます。
どうぞ、有縁の皆様、読みやすいお聖教でかまいませんので、手元において
頂き、拝読されてください。意味を押さえる必要はありません。
そのまま、何もわからないまま読むほうがよいと思います。
そして、だまされたと思って、「なむあみだぶつ」と
お念仏申してください。
そして、お念仏しても損をしないか、と思ったら、「なむあみだぶつ」を
常に、称えてください。小さな、自分の耳に聞こえる
かすかな声で大丈夫です。
その念仏は、必ず、あなたが最も辛く、苦しみ、孤独で、悲しく、
死にたくなったとき、本当に心を支え、あなたをまるまる
お念仏申すことは、常に、如来があなたと手をつなぎ、
頭をなでてくださっている、あなたが涙するときは、
如来がともに涙を流して下さいます。
如来は、かわいそうに、とただ傍観する方ではありません。
こちらへ来てくださる、だから如来というのです。
ひかりと闇は裏表。
異なるけれど、異ならない。
一つであるが、一つではない。
生かされていることには、ちゃんと意味がありました。
すくなくても、僕にはそれがありました。
そして、それに心から、満足し、感謝しています。
それは、すべてのいきとしいけるものにかけられた願いです。
それが弥陀の本願です。
どうぞ、お念仏申してください。大丈夫です。
ただ念仏のみぞ、まことにておわします(歎異抄)