禅とは何か。
自分は、全くわかりませんが、ご縁があって、
鈴木大拙先生の「日本的霊性」という本を読ませて頂きました。
禅を通して、先生の到達なされたこと(自分は表現できないので、もしよければ、
読まれてください)と浄土真宗の、弥陀の本願に遇う、ということは、
等しいのではないか、と感じました。
また、たまたま読んでいる本の中に、先生の短編集的なものが
載っており、拝読しております。
その一文を、記させていただきたく、存じます。
自由とは、それまでは、空しい言葉にすぎない。
最初の目的は、すべて有限なるものが落ち込んでいるそのそくばくの状態から
逃れることであった。だが、われわれの手足をしばっている無知の鎖そのものを
断ち切らずして、どこに解放を求めようか。
そしてこの無知の鎖は、ほかならぬ知性と感覚の迷妄からなるもので、
これがわれわれのもつ思想の一つ一つに、また抱く感情の一つ一つに、ぴったり
粘着しているのである。これはまことに除きがたい。
濡れた着物のようであると、禅僧は巧みな表現をする。
「人は自由にしてかつ平等に生まれた」
これは、社会的には、また政治的には何を意味しようとも、精神の世界では
絶対の真理であって、われわれが引きずり廻っている手かせ足かせはすべて、
存在の真相を知らざるがゆえに、後から加えられたものである、と禅は主張する。
(略)
この意図するところは、かれらを本来の自由の状態に帰すことである。そして、
そのことは、一切の観念的表現に頼らず、自分自身の努力によって、われわれが
一度それを身をもって体験しない限り、決して本当にはわからない。
かくて、禅の究極の見地はこうである。
われわれは無知のゆえにさまようて、自己の存在に分裂をきたした。
そもそものはじめから、有限と無限の葛藤などは必要でなかった。
われわれがあがき求めている平和は、つねにそこにあったのである。
言葉は違えど、弥陀の本願とまったく、同じことをおっしゃっていると
味わいます。
すごい先生だなぁと感じます。
16/06/07追記
その心の境地は、浄土真宗、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人、そのほか、
多くの先生方が弥陀の本願を讃えられる心境と等しい、と思っています。
禅宗に限らず、ぜひ浄土真宗にもご縁を結んで頂きたいと切に願います。
こんなブログに来てくださり、有難うございました。