むなしさとともに

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終わりなき歩み

即得往生とは、有余涅槃のことである、と聞かせて頂きました。

 

余りがある、涅槃。

 

余りとは、肉体、我が宿業の身、煩悩具足のわが身と味わいます。

 

そして、この世の縁が尽きるまでは、宿業をひきずりながら生きていく。

 

でも、宿業に引きずられない。苦しみに執着する私を如来が転じる、

 

と教えていただきました。

 

わたしの力は、微塵もない。そもそも、根本的な無知無力無能である。

 

 

『聴く』と『聞く』は違う。

 

前者は、主体的に聞く。そこには「わたし」がある。

 

後者は、聞こえる。音は、聞くのではなく、聞こえる。そこに「わたし」は

 

必要ない。無為自然と味わいます。

 

そして、『信心』は『信心する』ではなく、『発起するもの』である。

 

如来の呼び声が聞こえた刹那、発起する。

 

即得往生 住不退転。

 

前念命終、後念即生。

 

入正定之聚。

 

不退転とは、悟りの四十一地、初歓喜地に立つ、ということであります。

 

わが身、わが宿業を抱えたまま、如来の本願に全てを託し、

ただ念仏とともに、今生の縁が尽きるまで、歩み続ける。

 

これが、念仏者の有様であると味わいます。

 

自分は、使命があるとか、成したい事があるとか、自分の願望を目当てにする、

目的、目標はもはや必要がなくなりました。

 

助けてくれ、助かりたい、という思いもありません。

 

ただ、自分以外の大切なひとたち、これらの人が、自分と同じく、

摂取不捨の利益に預かった身にさせて頂くまで、わたしは、

たとえ、浄土に往かせて頂いたとしても、わたしのようなものは、

決してに仏になってはならないと思います。

 

すべての衆生が、みな仏に成った後、一番最後にわたしも成仏させて頂きたい。

 

そうでなければ、申し訳が立たない。そういう日暮をしながら、

 

自分だけ、仏にさせて頂くわけにはいかない。

 

還相の菩薩として、すべての衆生が往生するまで、歩み続ける。

 

それが、終わりなき歩みであり、そして、それを

 

本当の自分は求めていた、と尊敬する先生に教えていただきました。

 

すべての衆生が念仏申す身になるまで、歩み続ける。

 

それが、今の自分の正直な願いです。それが、阿弥陀さんのご恩に

 

報いる唯一の道だとも思うのです。

 

どうぞ、お念仏申してください。

 

 

なむあみだぶつ

 

終わりなき歩みがはじまった。

 

この言葉を教えて下さった先生は、往生されておられますが、

その声と教えはこれからも沢山の方を照らし、支え、育み続けると

確信します。なぜなら、その一人が自分だからです。

 その先生は、和田稠(わだしげし)先生と申します。

 

 自分は無力でありますが、先生の言葉はまことに重く、響くものであります。