むなしさとともに

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自分が問われている

慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。

無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。

(真宗聖典p275 教行信証 信文類)

 

今日のお話の中で、自分は、果たして、ひと、なのか、

畜生なのか、を問われた気がした。

 

正直、自分は無自覚で、うまいとか、好きや嫌いや、

損か得か、可愛いや可愛くないとか、そればっかりが

頭にも身にも蔓延している。

 

にもかかわらず、あの人よりはマシや、と口に出さなくとも、

心にしたためて、相手を下げて自分を高める。

 

それで、その心が一時も止まない。

 

この心をもって、善業を積めると思っていた。

我が身我が心が恥ずかしいものとと露とも知らず。

 

自分にできることには、裏表がある。

ある方向から見たら、良いとも言えるが、別の角度から見たら、

ただの自己満足に過ぎないと言われるだろう。

 

畢竟、それを止めずに生きることができないのが、私である、と結論を出された。

 

罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします(歎異抄第一章)

 

自分の力では何一つ間に合わなかったと、ただ念仏に自覚させられた時、

我、汝を引き受けたという声が聞こえると頂きます。

 

かといって、悪はやはり悪だけれど、仏の智慧により、

初めて私に慚愧の心、申し訳ないです、ごめんなさいという想いが開かれる、

それが仏法を聞かせて頂く所詮だと教えて頂きました。

 

縦糸と横糸は、二つで一つ、どちらかが欠けては、綺麗な反物にならんのです。

 

自分の人生の横糸には、仏法、お念仏という縦糸がなければ、成り立たない。

 

そう教えて下さる言葉に頷かざるを得ないのが自分のひぐらしです。

 

お念仏にいつも問われているのだなと教えて頂きました。

 

 

常に自分は全く仏の教えに背き、真逆へ真逆へ行こうとしている、

 

 

そういう我が身がなぜ仏法にご縁があったのか、不思議に思うのです。