まじめにやっていても、結果がでないとか、
誰にも認めてもらえないとか、
むしろ、不真面目な人が評価されるとか。
ばかばかしくもなる。
でもね、阿弥陀さんは、見てござる。
阿弥陀さんは聞いてござる。
阿弥陀さんは、目には見えなくても、寄り添い、あなたとなって、
泣いてござる。浄土で待っておられないから、
浄土真宗の阿弥陀さんは立ち姿。立ち姿でないはずがない。
2016.2.17追記)座っておられる阿弥陀さんもいらっしゃると思いますが、
わたしは、常に急いでおられると頂きます。
自分が認めようが、認めまいが、一切関係ない。
一切というのは、皆無、無力ということ。
そして、
わたしが存在している、生かされているこの事実は、誰も否定できない。
確かな事だ。大きなはたらき、意志、決意の中に、私は存在している。
この事実を親鸞聖人は帰命尽十方無碍光如来とおっしゃった、と味わいます。
阿弥陀さんは、一切のいきとし生けるものを、
わが友と呼び、わが子と呼び、汝と呼び詰めに呼んで下さります。
一切のいきとしいけるもの、といっても、
結局はわたしいちにん、あなたいちにんです(真宗の不思議なところです)
『汝』という言葉は阿弥陀さんの私への親しみの籠もった、あたたかい言葉です。
お念仏とともに。なむあみだぶつ。
追伸:わたしが存在するこの世界の因果律は顛倒している、と経論釈には出ています。
(真宗聖典 七祖編で確認したら、また書かせて頂きます)
つまり、残念ながら、この世は、報われない努力が存在するし、残酷な事実もある。
しかし、十方衆生は、阿弥陀さんに遇わなければならない。どうしても。絶対に。
そのためにわたしは生かされていた、そして、
今、これから、阿弥陀さんと共に歩まさせて頂く身にして頂きました。
そして、私は心から、あぁよかったと思っております。