むなしさとともに

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矛盾と平等

平和は尊い。人はみな平等である。

頭で理解している、あるいは、これを思わない人はごく少数のはず。

なのに、なぜこの世界は、戦争や暴力、差別、貧富の差が

存在するのだろう。

 

ここにヒトにとって、根本的な矛盾を感じる。

 

畢竟、理想が全くかなわないのは、一人ひとりが抱える、エゴに

より、それらが自動的に捻じ曲げられる(主として自己保身のために)から

ではないだろうか。

 

いかにエゴはだめだと分かっていても、根っこは自己保身をし続ける。

わかっちゃいるけど、やめられない。

というか、それが、私の日暮そのものなのである。

 

娑婆は浄土にはならない、娑婆のままである、と聞いたことがある。

本当にそのとおりだと思う。

 

ばらばらで一緒。こう頂く為には、如来の本願に遇うしかないと味わう。

 

では、遇えばどうなるか。

 

わたしは、分別、差別をせねば生きていくことができないし、

他人に対する共感性、思いやりが欠落しているものでした、申し訳ありませんと

如来とわたくしの意味空間に、常に転じられる。

 

そこには、懺悔と感謝が生じる。

 

如来に遇うまで、真の意味での懺悔は皆無だった

(できるし、していると思っていたが、全くの見当違いだった)

 

ただし、遇わなくても生きるものすべてに、平等に訪れることがある。

例外はない。

 

死である。

 

死はいちにんも逃れることはできない。この問題に直面したとき、

自分自身に問われるはずだ。

 

これでよいのかどうか。自分はどうなるのか。

 

この解決を引き受けてくださるのが、阿弥陀如来の本願であると味わう。

 

どうぞ、お念仏申してください。