阿弥陀如来の本願と聞く。
では、本願とは何ぞや。
本願とは、どうにもならない私を、今生から、引き受け、共に歩むぞ、
汝いちにんのための本願じゃぞよ、と聞く。
では、本願とは、どこに成就するか?
どこでもない。わが身、わが宿業に成就する。
では、成就すればどうなるか?
転悪成徳。無碍。自分自身が作り続けてきた悪業、煩悩のわが身では
ありながら、それは往生のさわりにはならない。問題ではない。
むしろ、それがなければ、私は本願に遇わせて頂くことがなかった。
阿弥陀如来を除く、すべて一切の仏方が、かわいそうだが、どうにもならん、と
匙を投げ、見捨てられた自分。
それをかわえやと引き受け、摂取不捨といだきとってくださる。
宿業に感謝する。わが身の浅ましさに感謝する。
どうにもならんなぁと、毎日育てていただき、
一日一日、浄土へ引きずられていく。
自分は、無慈悲で、無共感で、残酷で、造悪、煩悩が止まぬ
本当に浅ましいものだけれども、お念仏はわたしを捨てない。
本当に、自分は、自分であってよかったなぁとしみじみ思う。
阿弥陀さんに遇えて、本当に良かった、心からそう思っています。
この点において、私は、私の言葉と私の心は、全く偽りはありません。
そのとおりです。心口は一致しております。
金子大栄という先生のご本の中に、印象深い一文があった。
生涯、念仏の炎で、これまで無量永劫作り続けてきた、煩悩の薪を焼き尽くす。
薪は、今生で終い。後は、煩悩の林を遊ぶが如く、
有縁の方を、共に拝み合い、感謝しあう仏にさせて頂くために、
歩み続ける。
阿弥陀さんにお遇いして、初めてわが身、わが宿業は有難いなと思わせて頂けるように
なりました。