自分の原点を振り返ると、やはり、
何もかも間に合わなくなった1年あまり、のような気がする。
今思えば、あの日々があったからこそ、再び仏法とご縁を結ばせて
頂いたと思うが、やはり、孤独であり、辛く、むなしい日々だった。
ただ、肉体が生きているだけのような、そういう日々だった。
それに引き換え、今の自分の状況をみると、
何もかも足りすぎていて、おかしいなぁと思うほどである。
恵まれすぎている。少し気持ち悪い。
あの日々は、決して無駄な時間ではなく、
あの日々があったからこそ、今がある。こう思っている。
ただし、現状もしばらく、ご縁がある間のことで、永く続くことはない、
だから、おぼれてはいけないし、いつ失ってもよい心の準備を
しておかなければ、と思うことである。
こう思っていても、現実を突きつけられると、受け止めたくないし、
避けたい。逃げたい。悲しい。こういう思いがわきあがってくるのだろうなと
思う。それが正直な自分の有様だし、それでいいのだと思う。
心は変わり通しのため、今思っていることが、次の瞬間、刹那、
もう変わっているし、普段、自分が如来のことを思うことはほぼない。
しかし、自分が何一つ分からなくても、
何一つ間に合わなくても、かまわない。
如来まします。
このこと一つで、あとは野となれ、山となれ。
如来とともにわれはゆくのみ、と頂いております。
本願とともに。南無阿弥陀仏
16/06/16追記
物事、出来事、一切を無駄にしてきたのは、我(が)の心。
その我の心のさえも、包む弥陀の大悲。
観仏本願力 遇無空過者 本願力に遇いぬれば むなしくすぐるひとぞなき。
本願はまことなり。如来の言はまことなり。摂取不捨の真言まことなり。
弥陀の本願、われ宿業に成就せり。