本当は聴聞する心はないはずなのだが、
不思議と足を運ばせて頂いている。そして、今年もご縁を頂いた。
今回も新しい発見があり、出会いがあり、感動があった。
忘れる前に記そうと思う。
真宗は自己を見るまなこである。
自己を相対化するために、阿弥陀さんのまなこに映る自分が必要。
欲がでても、いかりはらだちが出ても、いつも立ち帰る。
さてさて、大悲の御胸を焦がし、涙を流させている自分であると、
本願、宿業の身に立ち帰る。念佛が本願に戻してくださる。
利自性(自分は我執と解釈した)の自分。そこから決して離れられない。
今生成仏と後生成仏を目指す仏教。
にんげんは「意味」を食べて生きている。
そして、どういう意味を食べて生きるのかは、ひとりひとりのしのぎである。
自分は、真宗の意味空間なしでは生きていけない。
もしも、浄土真宗に「悟り」というものがあるとすれば、
それは「わたしは如来のまなこにうつった凡夫そのものである」
という自覚だと感じた。
佛の悟りではなく、自分は凡夫そのものであるという悟りだと思う。
宿業の身に立ち返る。
宿業から離れない本願に帰る。
これが浄土真宗の信心(信知)だと味わう。
親鸞聖人という人の純粋性。そして、ひたすら求道者、念佛者としての
歩みを進まれたと思った。だから、親しみや懐かしさを感じる。
自分と遠くない方だと思える。
それは、美しい羽をあえて汚して下さっているからである。
ひとつひとつの言葉、本尊に深い意味が込められている。
そして、それらの背景を知ったとき、自然と頭が下がる。
親鸞の『鸞』の一字に込められた意味。
これはこれから、ずっと忘れないと思う。尊い意味を教えて頂いた。
有難いなぁと思う。
そして、釈迦如来、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人、たくさんの善知識の
教えが、今、ここに存在する自分に届いている不思議。
そして、その教えは、これだけである。
ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべし。
一心一向に弥陀に帰命すべし。
繰り返しまきかえし、確かめさせて頂く尊いご縁を頂いた。
無仏法の自分がなんでこのようになったかはわからない。
しかし、方向は確かに定まっている。
それは、自分に答えを求めるのではなく、
阿弥陀さんに、念佛に道を尋ねればいいのだと。
自分には、何もないのだから。
本願とともに。なむあみだぶつ