むなしさとともに

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この身を生きる

今こうして人の身を頂いているということの意味を問う。

 

自分が人として生まれざるを得ない理由があったのだ思う。

 

この世をお釈迦様は、娑婆世界と仰った。

 

娑婆世界では一切が無常である。

 

そして、そこに住むものは、煩悩具足の凡夫。

 

歎異抄にはこうある。

 

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのことみなもって、

そらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念佛のみぞ

まことにておはします(歎異抄後序)

 

生きることはきれいなことではないと思う。

 

食べなければ、嘘をつかなければ、外面をよくせねば、

本音ばかりを言えば、生きられないのだ。

 

もしたった一つでも本当に止めようとしたならば、もはや存在できない。

 

そういう自性を抱えて、今こうして生きている。

自分はこの現実を宿業というのだと思っている。

 

現実を憎み、忌避し、軽蔑し、差別してきたのが、自分の歩みだと思う。

 

だから、自分で自分を受け止める事ができなかった。

ずっと逃げてきた。

 

しかし、宿業を憎むのが我執、宿業を痛むのが本願。

だから宿業と本願は決して離れない。藤谷先生の言葉。

 

如来は足である。弘誓の佛地を踏みしめる足である。

だから、自分自身を、今の現実を何とかよろよろ受け止める事ができる。

 

今までの歩みを、今の現実を、精一杯生き切る。

 

これが自分の存在する目的と手段となった。見返りは不要、

ただ選択本願の念佛のみぞまことにておはします。

 

念佛とともに、本願とともに、如来とともに、

僧伽とともに、生きとしいけるものとともに、歩み続ける。

 

如来は足である。わたしを支える足である。

 

本願とともに。なむあみだぶつ