現実のわが身、わが身の生きるこの世界は、自分の思いを食い破っている。
こう聞かせて頂くけれど、本当に自分の思い通りにいかないこと、
自分が破られることを、絶対的に否定している。受け入れられない。
絶対に破られたくない。自分が間違いなく、正しいんや。
自分の願いは努力すれば必ず成就するんや。
しかし、因縁が和合しなければ結果は出ない。
それをどうしても認めることができない。
それはそのまま自分を否定することになるから。決して凡夫になりたくない。
心底忌避している。絶対に認めたくない。
それでも、現実は波のように押しかけてきて、自分の思いを全く無視して、
時が流れていく。
お念佛したら、苦悩がなくなるのですか?どういう効能があるのですか?
そんなものは知らない。ただ念佛しているだけで、それ以上のことでも、
それ以下のことでもない。称我名号の仰せに随っているだけ。
そして、嫌で仕方がない、犯してしまった過去、逃れられない現実に
直面すると、何もかも間に合わんのです。
もう、仰せしかない。仰せがかかっている、そのことだけが憑みで、
それに支えられて、堪えるしかできない。
刹那の生死を繰り返して、一期の生死を迎える(和田先生)
一期の生死を迎えるまで、この肉体、この心から一歩も出ることが
できない。
無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、
はらだち、そねみ、ねたむこころおおくひまなくして、
臨終の一念にいたるまでとどまらずきえずたえずと
水火二河の譬(たとえ)にあらわれたり(親鸞聖人 一念多念文意)
でも、もう少しだ。これで最後だ。だから、よろよろでも、
ぼろぼろになっても、たとえ念佛さえできなくなったとしても、
仰せ一つに生き、仰せ一つに死ぬ。それしか灯がないのだから。
念佛が聞こえないのは、まだ余裕がある。その余裕を自力を憑むという。
そのひとを善人という。
自力は捨てられない。廃る。仰せが届いて初めて廃る。
念佛のいわれ、大悲のこころを聞くしかない。念佛申さんと思い立つ
心のおこるまで聞くしかない。もうどうにもならない、宿業・現実に
押しつぶされる人を悪人という。悪人正機とは、このことである。
本願の目当ては悪人である。
本願とともに。南無阿弥陀佛。