むなしさとともに

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如来選択の道

法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と

候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうえに(ご消息十六通真宗聖典p771)

 

愚者とは、自分で道を歩めない者すなわち自分のこと。

 

その愚者は、自分自身の願いや望みさえわからず、生を貪るような

ことしかできない者。

 

その者には、もう道がどこにもない。もともと道などなかったのだが

そのことを知らなかった。歩むべき道があると思っていた。

今も思っているのかもしれない。

 

しかし、この者に対して、念佛往生の誓願がまします。

だから捨てない、見捨てられないの如来まします。

 

そして、如来選択のただ念佛の大道が今ここにまします。

 

愚者のために建立された念佛往生、本願の名号。

 

この大道を静かに往く。愚者になり続けて。

 

本願とともに。南無阿弥陀

 

17.10.18追記

 

愚者になり続けて、とは、照らし出だされ続けるという意味である。

 

邪見驕慢放逸は仏法の仇である。このままだと放逸することではない。

 

光に照らし出されれば、恥ずかしい、まことに力のない、情けない、

 

自身が見える。そこに慙愧、悲歎が起こる。

 

その慙愧と悲歎を凝視するところに、すでに如来のおはたらきに

 

包まれているではないか。これが本当に安心した相じゃぞよと

 

藤谷先生から聞かせて頂いた。仏法のおはたらきには底がないのである。