なぜ苦しいのか。なぜ孤独なのか。
その答えを外にばかり求めてきた。しかし、答えは外ではなく内にある。
我が身さえよければいい。他はどうなってもかまわない。
そもそも関心がない。わが身の安穏さえ保てればそれでいい。
他を責める心が止まない。一切を経済的、機能的にしか認識することができない。
役に立つか、立たないか。それがいいひとかわるいひとかの基準。
損か得かが、私のものさし。
誰のことも認めない、受け止めることができない。否定しかしない。
そういう者が果たして受け止められる、必要とされることがあろうか。
それは傲慢ではないか。
こう思うこと自体が根元から腐っているし、顛倒している。逆さまだ。
極重悪人とは誰か?他を批判し、否定し、許さず、
自分の安穏をひたすら祈っているものではないか?
では、それは誰だ?佛法は問うてくる。
ごめんなさい。それは私のことです、と頷かしむる智慧の光。
極重悪人唯称佛。
ただ称えよの仰せに応えざるを得ないのは、
自分自身の存在の願い、自分のことさえ始末ができない、間に合わない私です。
何を求め、何を楽しみに生きているのか。何が正しくて、何が間違っているのか。
一切何も分からないほど、底知れない悪性を具足している。
汝よ、ただ我が名を称えよ。選択我名。選択本願念佛。
この仰せだけがまことであり、灯明である。
しかし、それはいまだほんに微かな灯明であり、微かな響きである。
このことを四五寸の白道というのだろうか。
しかし、その灯は消えず、その響きは今もなお胸に響いている。
本願とともに。南無阿弥陀佛