思い通りにならない現実があり、
そこから逃げよう、できるだけ痛い目にあわないように、あわないように、
やっているけれど、それでもしょげることもある。苦楽の相を思う。
晴れの日があれば、雨の日もあり、曇りの日があれば、雪、嵐の日もある。
移り変わり続ける。ひとところにとどまらない。
いつでも念佛を聞く。行住坐臥、不問時節久近と仰る。
ひとり、小さな声で念佛を申す。自分に聞こえるだけでよい。
他の誰でもなく、自分自身が聞かねばならないのだから。
口で称えれば、耳に聞こえる。
口で称えれば、自分が一番聞こえる。もし聞こえなくても、骨に響く。
振動する。念佛が唸る。
いつでもそこに帰る。何度でも。受け止め続けて下さる如来まします。
無限が有限に姿を現す場合、繰り返し、繰り返しという相であると頂く。
柔軟心の成就と信の純化。
このことを藤谷先生は大事に思っておられたと聞く。ご本にも書いてあった。
念佛即生活、生活即念佛。生きている現実を超えていく具体的実践が
柔軟心であるからだろうと思う。
繰り返し、繰り返し出遇い続ける。何度も、何度も、自分の思いを破られ続ける。
思いが破られ続けることを忌避していたはずなのに、今はそこに驚きと
感動と感謝がある。これは自分から立ち上がるものではない。
繰り返し、繰り返し、何度も、何度も、出遇い続けるうちに、
深まっていくのだろう。自分はただ如来の仰せに随順するのみ。
一方的な客体であり、主体ではない。
まともに受けると痛いことだらけ、でも本願が出来事を和らげる。
現実が飛んでくる。
でも念佛の壁に当たって、手元にゆっくりころがってくる。
自分はそのゆっくりにころがってくる現実を受け止める。
汝不実なり、と照らされ続ける。そこに朗らかな日差しを思う。
念佛を聞くということは、佛によって柔軟心を育まれることのように思う。
遠く宿縁を慶べ、のお言葉、しみじみ思う。
本願とともに。南無阿弥陀佛