和田先生は仰った。
個人の心境を述べるに留まってはいけない。
一人ひとりの心境は異なるのだから。
だから先達は云った。法の真実を説け、と。
それは法に出遇った人の言葉である、と。具体的には経論である、と。
自分に教学がないため、心境を述べるに留まっていると思うし、
そもそもこのブログ自体、自分自身を確かめるためだけに書いているものである。
誰のためでもない。誰かのためにといえたらいいけれど、自分はそんな殊勝な
ものでないのである。
ただし、佛法という原点から離れて自分の思いばかり記しても、全く無意味である。
最近教えて頂いた、西方指南抄という親鸞聖人が残してくださった書物の
一文を味わう。これはとてもありがたいお言葉である。
阿弥陀佛いまだ佛になりたまはざりしむかし、
もしわれ佛になりたらむに、わが名号をとなふる事、十聲・一聲までせむもの、
わが国にむまれずば、われ佛にならじとちかひたまひたりしその願むなしからずして、すでに佛になりたまへり。
しるべし、その名号をとなえむ人は、かならず往生すべしということを。
中略
たれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみず、
罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀佛ととなえば、
こえにつきて決定往生のおもひをなすべし、
決定心をすなわち深心となづく(西方指南抄 一五)
歎異抄第二章ののただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべし、という言葉は、
唯円房という方の耳のそこに留まる言葉であり、とてもありがたい。この通りだと
思うからである。
しかしこの言葉は、親鸞聖人自身が、法然聖人を思い起こされた西方指南抄に
直接ご自身のお言葉で書いてくださった言葉と聞いている。
故に、自分はこの言葉を大事にあたためていきたいと思う。
木村無相さんは偏依親鸞聖人と仰っていたと聞く。自分も少しずつ、
聖人の和語聖教を中心に読ませていただきたいと思う。
この言葉が自分の現実を支えてくださる、お念佛が日常を助けてくださる、
本願が足となり、大地となりわたしを支えてくださる。
これが自分にとっての法の真実である。
親鸞いちにんがためなりけり、のお心をしみじみ味わう。
全休様が、信仰とは如来と一対一の関係に入ることであると教えて下さった。
有難く思っています。
本願とともに。南無阿弥陀佛
一部文字が大きくなっておりますが、意図的にしたものではないのです。
ご本願のお心かと思い、そのままにしております。