むなしさとともに

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道が始まった

今までこちらへ行き、あちらへ傾き、左に行き右に行き

模索しておったのが、『私の行く道はこれだ』と、

その道が決定した。それを「往生一定」といいます。

私の人生の生き方が根元から定まった、これに増したことはない。

そのことを「御恩」と申します。(和田稠先生「生死出ずべき道」P83)

 

 

親鸞聖人、七高僧、和田先生、藤谷先生、有縁の先生。

 

先達の言葉にふれると、感銘を受ける。なぜか。

 

それは、いのちが言葉となっているからである。

あるいは、真実そのものが言葉となってその人を支え、

生かし切っているからだと体解する。

 

真宗は生きている。真宗聖典の言葉は躍動している。

脈をうっている。止むことがない。

 

自分を覚まし続け、覚まし続け、どこまでも、どこまでも、

思いを破り続ける。おぉ、こんな言葉があったのか、

おぉすごいなぁ、不思議なことだ、ともに今を生きているのだなぁと感動する。

一休みする暇がない。

このこと全体を往生というのだ。生活に往生が始まった。

終わりなき歩みが、生活が、わたしの上に今、開かれた。

そのことを往生一定、如来わが往生をさだめしご恩というのだ、と

和田先生は仰っている。

 

ありがたいことに、沢山の先生とご縁を頂き、選択本願念佛の

お心を懇ろに教えて頂いている。佛縁を賜り、本当に有難く思う。

 

自分にとって、ありのままを受け取って、ただ念佛を申す、

専修念佛の一道が始まった。他の方は一切関係がない。

念佛の目的は念佛。ただ聞くことにある。

 

善悪、邪正、ひとつもわからない。悪性もやまない。差別の心、

疑いの心は一寸も止まない。自分自身を拝み、供養する心も廃らない。

どこまでも我を立てる根性が抜けない。

死ぬまで抜けない。

 

我が心、わが身、我が思いに一切用事なし。それを貫く無碍光。

それは想定済みだ、ということ。すでに如来の智慧は本性をご存知である。

だからこそ、汝を決して捨てぬのだと仰る。

 

ただ選択本願の名号を聞く。それで事足りる。このことが往生一定である。

 

本願とともに、どこまでも歩み続ける。南無阿弥陀