むなしさとともに

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本願に出遇うまで②

ある方のブログに、ご自分の歩みを振り返られる内容のものがあった。

示唆を受けたような気がして、少し振り返ってみようと思う。

 

あくまでもどこにでもいる平凡な男がくだらない過去を振り返ったものに

すぎない。また自分の経験が誰かの役に立つということはない。あくまでも

主観的な経験に過ぎないのだから。法の真実は普遍であっても。

 

2.比較について

 

自分にはきょうだいがおります。幼き頃、先述の通り、無気力であり、

全く勉強もしませんでした。

おそらく、それをする意味が分からなかったから、だと思います。

 

つまり生きること、生活すること、学ぶことそのものに

一体何の意味があるというのだ、ということが分からなかった、ここに

深い溝があったように思います。

 

そして、それは成績の比較、ということに現れてきました。

 

今思えば、当然なのです。自発的に学習をしないのだから、

成績が悪いことも。運動神経が悪いことも。

 

でも、幼きとき、自分の通知表に比べ、きょうだいのものは、良かった。

ちゃんと得意なものがあった。

 

でも自分にはそれがなかった。すべて平均。あるいは平均以下だった。

 

親は別に分け隔てをする気はなかったと思う。実際に今も

大事にしてもらっている。ありがたいことだと思う。

 

しかし、人間とは、必ず比較分別をする者だ。

それは意識的に、無意識的に問わず、その本質が分別であると云える。

なぜなら、そうしなければ、何がよくて、何が悪いのかが全く

分からないからである。右を理解するには、左がいる。

上を理解するには、下を理解しなければならない。必ず相対を伴う。

 

これがどんなに他人を傷つけることか。分け隔てをすることか。

 

一切を、貨幣的に、あるいは機能的に認識することのできない、

わたしのまなこがどれだけ、他を傷つけ、自分を傷つけてきたことか。

 

今思うと、相対という世界の基準に、相当縛られてきたと思う。

 

今もなくなっていないし、死ぬまでなくならない、と聞く。

 

それが、絶対ではない、全く価値のないものであると知ったとき、

悪魔は悪魔としての力を失う。正体が分かったからだ。

 

このことを智慧と云う。

 

この智慧は如来選択本願の名号によって、衆生に発起する。