今に至るまでを思い起こす。思えば、色々あったのかなと思う。
3.決定的な欠落(存在の意味が分からないということ)
他人の気持ち、立場になって考えることが今以上にできなかった。
想像力がない、否、他人に関心がなかったのだと思う。
同時に自分が何をすればよいのかも分からなかったのだと思う。
流行のマンガに憧れ部活も楽しかった。しかしスタメンにはなれなかった。
補欠であった。
今思うと当然なのだ。全体の動きが見えない、
視野の狭いものが活躍できるわけがない。
チームの目的は『勝利すること』であるのに、
自分はただ自己顕示欲を満たしたいがためだけだったのだから。
そのことさえ気がつかずにいた3年間だった。
しかし運動のおかげで体力はついた。駅伝に選ばれたりはしたが、
強い意欲も持たず、やはり中途半端であった。
志を持たない行動はやがて朽ち果ててしまう。
これは今後も今も味わう事実である。
物事の意味がわからない、理由がわからない。
今思うと、これほど理不尽なことはない。
いつの間にか学校へ行き、授業を受ける。進学する。選択を迫られる。
これは何のためだ?どんな意味があるのだ?意味が全くわからない。
そして誰も答えてくれないのである。大人たちは考えることをやめたのだ。
答えが見つからないから。みなやめてしまったのである。
そして、生きるためにただ生きている。
このこと明らかにするのが、本願念佛の教えである。
しかし、偏によきひとに出遇うか否かによって、全く異なる結果と
なってしまう現実に注意したい。しかし、よきひとは唯一ではなく、諸である。
今もなお、沢山の先生が本願念佛を教えてくださっている。
人と生まれて。今ここにいるという現実。
自分自身に生まれざるを得なかった因があった。
それに決着をつけるために、人間として生を受けた。今はこう思っている。
念佛を申す身に目覚める、念佛に出遇う、如来に遇う、本願に遇う。
言葉は違えど、その本質は一つ。大無量寿経にいわく、
生死勤苦の元を抜かれんがため、であった。
法蔵比丘の眼目、本願の目的はただこの一点にある。
根元を断てば枝葉は自然に枯れていく。清沢先生のお言葉にあった。
根元とは、見惑、枝葉とは修惑である。
このこと一つのために生きねばならなかった。忍ばねばならなかった。
このことが明確になったのは、今から1年半前のことである。
遠く宿縁を慶べ、このお言葉は本願に出遇ったことを通して、すべて
通らねばならなかったことであったと述懐するものである。
では、生死勤苦の元が断たれるのははいつだ。
今だ。ここで、だ。
生きている今。往生は今始まる。
始まった往生は必ず遂げられる。
止むことがない。歩み続ける。如来の誓願ゆえに。寿命無量、光明無量に
裏づけされているが故に。