4.失敗
自分は主体的活発的なものではないため、
こうなりたい、という意欲や夢が一つもなかった。
流されて、あるいは火がついてからでないと腰を上げない、そういう子どもだった。
そういうことで、受験に関しても、
具体的に志をもって取り組むということができなかった。
推薦入試を受けて、それに失敗し、失敗や恥に対する憎しみを
もってその都度かたをつけてきた、そういう有様であった。
今思うと、ゆがんでいると思うが、
自分はこうするしか前に進む方法がなかったのだと思う。
全く意味が分からないのだから。
なぜそうしなければならないのか。どんな意味があるのか。
誰も教えてくれないし、自分自身そういう本質的な問いにさえ気がつけなかった。
志を持たない、ということは具体的実践が伴わない、ということ。
つまりインプットしても、それを反復しなければ、身につかないのである。
学校で学習しても、それを復習し反復しなければ、右から左で抜けてしまう。
こういうことを繰り返し、そして、明確な目的意識がないまま大学へ入った。
振り返ると、やはり明確な意思、方向がないと、具体的実践につながらない、
あるいは発心してもそれが挫折頓挫してしまう、こういう歩みであった。
このことを退転退屈と仏教では言うと聞いている。
諸行無常、退転退屈。ひとにとって、深刻な問題だと感じる。
そして、自分自身が根本的に一切に無知であること。
自分の存在の意味、理由、他者との関係。
これら一切を貫く意味を知らず、
善悪も知らず、その都度その都度生を貪り、死を憎む。
これがわたしのありようだったし、今も変わらない。
もし違いがあるとすれば、そういう助からない者が自分である、
ということを知らされていることだろう。それ以外全く違いはない。
それを知るか知らないか、ここが全く違う結果をもたらすことになる。
これを如来の智慧という。念佛の信心という。信知という。
しかし、これを握ってはいけない。これは手放すものである。
これを成就せしむるものが、如来の本願力、選択本願の念佛という。