6.現在
念佛を申し、生活をする。必ず隣にひとがおられる。
そのひとが自分の自性を教えてくれる。
今の自分にとって、重要なことは、今ここでお念佛を聞かせて頂く、
ということに尽きる。
色々なことを思い違いしていたが、どんなに心をさしおいても、
現実のわが身はどうしても、反射的に、これは悪だろうなと思うような
日暮をやめることができない。煩悩具足という言葉の響きは、完成、
欠け目なく、常である、ということだと思う。
しかし、それを目当てに弥陀の本願、自然のりょうをしらせんがために、
お念佛、本願の名号を成就くださった。
他に何か必要なものがありますか?何かくずれぬものがありますか?
何ひとつないのです。
今ここでお念佛を聞かせて頂く、このこと一つで十分なのです。
善悪もわからない。自分が何をしたいのか、何をすべきなのかも分からない。
そういう者を凡夫と仰った。凡夫は本願のはたらく場所であります。
場所がなければ、どうにもならない。どうにもならない自分だからこそ、
如来が目を留めて、十方の衆生よ、と喚んで下さった。それだけで
よいのではないでしょうか?
何を求めておられますか?答えはすぐそばにありますし、常に寄り添い、
喚び詰め、立ちづめ、歩みづめであります。
如来のお姿から、目に見えぬお慈悲のありたけを頂く。
自分はそれだけで十分なのです。
本願とともに。南無阿弥陀佛
161227追記
先に書いたことも思うままであるが、思った先に、様々な物事への
執着を知らしめられるばかりです。やはり凡夫であるというところに
何度でも戻されてしまいます。そこに痛みを感じることもありますが、
それも一瞬。ただし、わが身我が心に付随する一切は、無常なのであります。
無常を無常と知る。このことはとても大事なことのように思います。
物事の一切は留まることがなく、常に移り変わっていく。
そこに善悪はなく、ただそうなっている、というだけのように感じています。