無縁の大悲。摂取不捨。
この言葉の出所を聞く。この出所を本願といい、南無阿弥陀佛という。
表面ではなく、言葉の本質、言葉の響き、いのちが形をとった言葉、
言葉となってまではたらくいのち。
それを聞くのだ、と。和田先生の『常没の凡愚』を聞かせて
頂いて改めて思うことである。
いのちの要求。それは僕にとっては『むなしさ』であった。『むなしさ』は
お前はこれでいいのか?という問いかけであった。
静かではあったが、自分を貫いて要求してきた、確かないのちの声であった。
今は『いのち』の声に耳を傾けたいと思う。『いのち』は
共に認め合い、共に助け合い、共によろこび、共に分かち合い、
いのちの友となることを要求している。
そして、このことを如来はかねてご存知である。十方衆生という言葉の
でどころはいのちの要求だと思う。
そのむなしさを信頼しなさい。
和田先生はこう仰ったことがあると伺った。
素晴らしい言葉である。このような言葉のいのちを、いつまでも見失わずに、
いのちのともがらと共に生きていきたい。
本願とともに。南無阿弥陀佛