どんな人も、その人を精一杯生きていると思っている。
あるいは、できることなら、互いに傷つけあわないで、尊重し、生きたいと
思っていると思う。
でも、それが何一つ成就しない。
成就するとは、その人という存在そのもの、実存という言葉でしか
表すことができないような厳粛な事実を、根本的に支える大地、
地に足がつく、これでわが命は事足りたというような出遇いだと思う。
一切が間に合わない。
しかし、人は一生懸命生きている。
なぜそんなことになるのか?
根本的な無知を抱えているからである。
無知とは、方向を知らない。存在の意味を知らない。
自分が何をすべきか、何のために存在しているか分からない。
だから、自分が思うものを『よし』とし、その方向に向かっている。
『その方向で良いのか?』『汝の『よし』の根拠は何だ?』という問いかけ。
これが宗教心であると聞く。
今、ここで自分は自分を生きている、
と言い切れる人はどのくらいいるのだろうか?
少なくても親鸞という人は、もがきながら、苦しみながら、本願念佛を
通して、自分に遇われ続けた方だと思う。
救いとは、方向が定まることである。
迷うことを引き受けることであり、
役立たずを引き受けることであり、愚者になり続ける、そういう身に定まる
ことである。
役に立つ人は、決して忘れないでほしい。
役に立たない人がいるから、役に立てるのだと。
ひとは独りでは存在ができない。必ず関係性の中で、自分を生きている。
そのことを忘れていた。しかし、やっと思い出したのかもしれない。
ただし思いは思い。そのままに、ただ念佛を申す。この一声に出遇い続けていく。
無明に対し、念佛は智慧である。念佛こそ形なき法性の声である。
南無阿弥陀佛