むなしさとともに

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願力無窮

無明長夜の燈炬なり 智眼くらしとかなしむな

生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ

 

願力無窮にましませば 罪業甚深もおもからず

佛智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず(正像末和讃

 

自分の心と我が身を相手にしない。そこからは妄念妄想以外に生まれてこない。

 

仏語、よき人の仰せ、本願の名号より信が生ず。

 

我が心より決して信は生まれず。

 

法蔵願力が無窮であり、果たし遂げずばおかぬとの御心。

 

願力がかけられた我ら、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよとの仰せ。

 

念佛往生は如来の悲願。必ず果たし遂げるとの仰せ。覚悟。

 

信は他力の信心、自分の信ではない。

 

南無阿弥陀

 

 170920追記 こちらに、よくアクセス頂いているようなので、

 今、自分が頂いていることを記します。

 

 信とは如来の仰せにそのまま委ねていることであり、

 それが特別なことであるとは思いません。

 

 ただし、自力といわれる 自分の心、身を憑みとし、

 自分の思うとおりにことが運ぶに違いないという邪見は

 我々の自性であり、拭い去ることはできません。というより、それ自体が

 自分であります。縁起を無視する故に苦しむように思います。

 

 故に地獄一定、しかし、それを必ず助けずばおかないという

 如来の本願まします。よって、いかに罪業は甚深であるとも、本願念佛、

 無限大悲には底がない、ここが肝要であります。

 この一点をひたすら聞くのであります。

 

 不退は如来であり、私はいついかなる時でも退転し続ける。

 如来に確信があれば、私はいくら迷っても支障ない、ということであります。

 でも、本当はね、煩悩も全く知らないのであります。

 自分の思う心の動きを煩悩とよぶだけで、それが本当に煩悩かどうか、

 自分には全く分からないのであります。これを愚者と仰るのでしょう。 

 

 如来蔵は清浄であるが、煩悩に染まることがある。これは如来のみが

  正しく知見する境界であって、二乗、菩薩の量り知るところではない、

 これが聖徳太子の教えであります。