122 一宗の繁昌と申すは、人の多くあつまり、威の大なる事にてはなく候う。一人なりとも、人の、信を取るが、一宗の繁昌に候う。しかれば、「専修正行の繁昌は、遺弟の念力より成ず」(式文)と、あそばされおかれ候う(蓮如上人御一代記聞書)
立派な法要に参加させて頂いた。寺族、一般の方問わず、沢山の方が
いらっしゃっていた。
しかし思った。この中で信を獲ている、あるいは獲ようと足を運んでいる人は
いったいどのくらいいるのだろう、と。
自分は聞くために伺ったが、法要が終わり、お話に入る前に帰られる方も
見受けられた。
浄土真宗は、学問知識教養の類ではなくて、存在に決着を着けて頂くための
教えである。
つまり、存在が問題にならないのであれば、必要がない教えといえる。
では、お前はどうだと言われると、首を傾げざるをえない。
なぜなら、自分にはそもそも聞きたい、聞こうという心がないからだ。
念佛申す身にして頂いたのは、ひとえに如来のおんもよおし、光明名号の
お育てに預かったからである。自分の力は微塵もない。
また暫くお休みさせていただこうと思います。別に意味はありません。
ただ何となく、書くことよりもむなしさに浸りたいと思うだけであります。
南無阿弥陀佛
17.06.13追記
有縁の先生はこう仰いました。
自分の救いを抜きにして、言葉遊びをして、あぁだこうだ言っても、
何の意味もない。自分のような者が本願力によって助けられたのだから、
先生の目には涙が浮かんでいました。僕はそれを見て感動しました。
虚仮不実で、こびへつらい、どうにもならない自分であるけれども、
一つだけ、まことが言えるとするなら、
ずっとわれらを待ち続けているのは如来であり、その名告りが、
南無阿弥陀佛である、ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべし、
これだけであります。あとは何にも知りません。
面々のおんはからいなり、との親鸞聖人の仰せを思って
しばらく筆を置きます。では、また。