ひとは、業縁存在である。
どんなに素晴らしいひとであっても、
どんなに仕方のないひとであっても、固定的な存在ではない。
因は無量永劫の生をもって、具足している。
縁は選ぶことはできない。このことを煩悩成就、緊縛と仰られるのではと思う。
思い通りにはいかない。思い通りにいかないことを『苦』とおっしゃる。
自分も他の方も所詮はひとである。ひとである以上は、有限である。
有限ということは、一切に限りがある、分限があるということ。
分限とは超えられない一線がある、ということ。ヤスパースのいう限界状況。
思い通りに行かなくても、苦しいことがあっても、それはそういうところに
居るから、そうなるのであって、生まれることを選んで生まれてきた人は
佛菩薩以外にはおられないはずだ。
気がついたら、生まれていた。気がついたら、居た。
どのくらいこういうことを繰り返してきたのだろうと思う。
犬猫鳥を見ると懐かしい。憎めないものがある。
専ら如来の如実の言を聞く。
この一点。これがひとに生まれた所詮だと教わる。
これが抜けてしまったら、また
無量永劫の生死流転の旅に出かけるのだろう。
自らが選んで流転することと、流転していることさえ知らずに流転しているのは
別の次元のものである。
前者は佛菩薩の流転、後者はわれらの流転。
南無阿弥陀佛