むなしさとともに

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浄土の教え

もしも自分に世間との違いがあるとすれば、

それは念佛ひとつで事足りるということだと思う。

 

世間のことに埋没したい、うまくやりたいという思いは

今も頭を離れない。

 

けれども、それは本当に大事なことではないと

薄々気がつきつつあって。

 

それはきっと誰とも分かり合えないことだけれども、

だからといって簡単に諦めることはできない。

 

もしも自分が往生を遂げさせて頂くということが

あるのであれば、それは有縁無縁を問わず、一切の

いのちのともがらが本当に自由と平等を実現したあとで

なければならないと思う。

 

やはり自分だけが助かるとか救われたとか、そんなことを

いって、それを握ってそうではない人と自分を分けるようなことを

如来は望んでおられないと思う。

 

それに寂しいじゃないかと思う。

 

悲しみの果てた世界。浄土とは真に自由と平等と愛が実現した境界だと

思う。戦争、差別、衝突、貴賎、美醜、賢愚。そういうことを貫いて、

必ず成し遂げんという如来の覚悟を本願という。

 

その本願が具体化し、現実化し、この耳に聞こえるまでの形を

摂られた、それを念佛という。南無阿弥陀佛という。

 

それは助からぬ汝を必ず助けるの仰せ。勅命。

 

本当に大切なことはいったいなんだろうか?

 

別に良いとか悪いとかそんなことをいうつもりもないし、

そういう問題はもう用事がないのである。

 

ただ真実や誠というものがあるとすれば、それは人を選ばず、

場所を選ばず、時を選ばず、一切を貫くものでなければならないと

思う。機に相応する法、それが浄土の教え。

本願念佛の教えであると法然聖人のお言葉から教えて頂いた。

 

故郷に帰り、懐かしさを感じつつも、

やはり念佛の声が聞こえぬことが何よりもやり切れない。

 

分かり合えないもどかしさややりきれなさが去来して、

また過ぎていく。

 

人が人であることを忘れているのではないだろうか。

 

人は人を見出すことで自らも人になるのではないだろうか。

 

本当に大切なことはなんだろうか。