むなしさは、どうにもならんですね。
おそらくは、すべてに意味や価値を見出したいのでしょう。
しかし、如来は汝は迷いの凡夫なり、と仰る。
ここは迷いで、あちらは真実を求める、とかいうのではなくて、
一切が迷いであると仰る。一切とは例外がない、すべてであるということ。
色受想行識と仰る我が身で感覚できるすべてが迷いである、と。
心は三毒我執無明。
身も心もその起点は無明。
無明とは迷いの根源、あってはならぬ煩悩である。
聖徳太子もこの点を何度も注視されている。
あってはならぬ煩悩を抜断すると仰るのが、如来法蔵である。
大無量寿経には、何度もこのことを仰ってくださる。
人間には支えがいくつもあって、それぞれに助けてもらいながら生きている。
間に合う間はいいんだ。本当に輝きが力を与えてくれる。
光を、希望を、与えてくれる。それはいのちかもしれないし、
言葉かもしれないし、友かもしれないし、先輩かもしれない。
親かもしれない。兄弟、愛する人、家族、地位、名誉、財かもしれない。
その相は無量無数だと思う。人は業が違うから、憑みにするものも
業に引かれて違うと思う。
でも、その支えを如来は仰る。
一切は無常敗壊、退転するものであるぞ、と仰る。
親鸞聖人は、生死無常の理とお手紙の中で仰っている。
すなわち、必ず崩れるものである、ということ。それが崩れてしまうと、
また他のもので自分を支えようとするけれども、それが自分を支える大地に
ならない。どれも大切だが、本当に自分が支えを必要としたときに、
支えにならない。心が全く通わないのだ。身を通したことは、もう
どうしても否定することができない。否定する力が途絶えたのかもしれない。
もはや立ち尽くすばかりであった。何一つ間に合わない。どうにもならない。
人間は、どうしても一度ここをくぐらねばならない。くぐらねば、
本当のことが分からない。
(171005追記:くぐる、というと自力の表現のように聞こえるかもしれない。
ここで言いたいことは、初めから有限な存在として生きている、ということで、
問題は生まれたときから具足している。具足とは一体であり、離れないという
こと。問題を孕んでいるにもかかわらず、都合の悪い真実に目を背け、
何とかごまかそうとしている。これが人間の相だと味わう。故に、
真実に出遇う際は、人間にとっては、否定を通して響いてくる、と頂く)
しかし、その暗闇の只中を貫く一筋の光。
それが本願名号である。その出遇いは聞こえる、という念佛の相をとって、
わたしに実現する。
そこからはじめて、あぁ、この自分を生きていこうという覚悟が
生まれた。凡夫こそまことに自分のことであった。
凡夫を逃げずに、正面から引き受ける。自分の力で引き受けるのではない。
本願の大地が担ってくださるからこそ、である。我の力なぞ微塵もない。
南無阿弥陀佛
ふと教わった。無常は一切平等の根拠である、と。
平等の根拠は二つある。無限大悲と無常の相と。こんな風に感じた。
無常にあらざるものなし。すべて無常であるが故に、一切は平等である。