むなしさとともに

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信心のすがた

むなしくない、という題名でブログを初めて、

 

二年が経ちました。

 

二年も経ったのか、という思いと、二年しか経ってないのか、という思いが

 

しますが、今自分が頂いている信心の相を記します。

 

当初、諸佛という言葉がなかなか頂けませんでした。ピンと来なかった。

 

今、頂いているところは、あらゆるものが教えてくれる。もしかすると、

 

自分以外の一切の人、ものは諸佛かもしれない、ということである。

 

その声に、そのすがたに、耳を傾ければ、そこに教えが流れている。

 

だから、教えられることばかりだ。それは佛法にご縁がない方からも

 

頂いている。メダカからも頂いている。虫からも、木々からも、

 

光からも。

 

善知識は、この世にひとりではない。善知識だのみでは助からない。

 

有縁の知識を知識たらしめている本願を憑む。よきひとを通じて、

 

本願に出遇わなければならない。諸佛の勧めは念佛一行である。

 

こう述べる根拠は、阿弥陀経である。

諸佛証誠諸佛護念はただ念佛の一行だからである。

 

わが名を称えてくれ。如来の願いはただそれだけであり、

 

それは自分、すなわち如来を必要としてくれ、という御心だと頂く。

 

故に、今は善悪も用なし。たすかるかたすからぬかも用なし。

そんなことは知らない。どっちでもいい。問題ではない。

 

どうか、わが名を称えてくれと自分に要求する如来の願心に後生を託す。

 

これが今の自分の信心の相であります。

 

如来より賜りたる信であり、自分が起こせるはずがないし、

 

決して自分のものにはならない、如来の信である。仰ぐべきものである。

 

南無阿弥陀佛の喚び声を告げ知らせるが念佛なり。

 

南無阿弥陀佛の御心を知らせてもらうが信心なり。

 

声で喚ばれて心が知れる。心知られて喚び声たより。

かたちからまことを頂く。

 

藤谷先生が笑いながら、お話しになった声が聞こえる。

 

憑むべきは弥陀如来、依るべきは念佛一行(和田先生)

 

わが名を称えるばかりで、必ずわが浄土に往生させる。

 われをたのめと喚びたまうなり。

 

念佛とは出遇うものである。

念佛に出遇うということが、自分に出遇うということである。

 

藤谷先生、和田先生、そして存命の大切な先生方の言葉。

 

言葉の表面を聞くのではなく、響きを聞く。

 

すれば、かたちを通して、大悲が貫く。わが身、わが心に用事なし。

 

願力を憑む。それだけである。念佛が聞こえる。それだけで十分だ。

 

南無阿弥陀

 

 

 とどまれば腐る。流れ続け、破られ続け、歩み続ける。

 

とどまるひまがない。自分をたのみにしない。何の期待ももたない。

 

相続、往生の相こそ、不退転の相。終わりなき歩みと和田先生は仰った。

 

ひたすら聞く。わからないまま聞く。

 

答えを求めているのではなくて、どこまでも求め続け、

 

頂いても頂ききれないものを求めていた。今はそんな気がする。

 

また変わっていくだろう。変わっていけばいい。それが自然なことだと思うから。