根本的なことは、私にとって真理であるような真理を発見し、
私がそれのために生き、
かつ死ぬことができるような理念を発見することである。
いわゆる客観的な真理などを発見したところで、
それが私にとって何の役に立つというのだろうか。
(哲学の歩き方p142 竹内均 ごま書房)(22歳ころの日記とのこと)
たまたま手に取った本に琴線に触れる言葉があったので、
忘れないように記録する。
むなしさの根源は、私にとって真理である真理に出会いたい、でも、
それが満たされない、というものであったのだろう。
この身がある限り、本当の出会いが実現されることはない。
本当の出会いとは、往生浄土、成佛である。それは今生では決して、
成し遂げられることはない。この身が滅ぶとき、必ず遂げられると定まっていると
よきひとから聞かせて頂くばかりである。
どうしても真理に到達できないわたしのために、真理のほうから、
名となり、ことばとなり、今ここまで来てくださり、念佛を申す身にまで
仕上げて下さったこと、まことに如来のひとりばたらきである。
西洋の思想家、哲学者も結局のところ、親鸞聖人と同じことを
求めておられた、そして出会った人々は、如来のことを讃嘆しているのである。
彼らもまた諸佛である。
南無阿弥陀佛