然ればすなわち弥陀如来、
法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催され、普く一切を摂せんが為に、
造像起塔等の諸行を以て、往生の本願としたまわず。
ただ称名念仏の一行を 以て、その本願としたまえるなり。
(『選択本願念仏集』第三章)
なぜ称名念佛ただ一行を法蔵比丘はお選びになったのか?
この法然聖人のご文にその結論が凝縮されている。
平等の慈悲、普く一切を摂せんが為に。
この一文である。
このご文の心を尋ねると、全ての有情をもれることなく、あますことなく、
必ずわが浄土へ生まれさせて佛に仕上げてやりたい、という御心。
全ての有情とは、わたし一人である。わたし一人が、どんな境遇におかれても、
何をしても、何を思っても、関係なく、
わが願力にて真実報土へ往生させる、もし生まれずば誓うて、
佛に成らじ、との思し召し。
何の文句があろうか?平等の慈悲、必ず助ける、という御心。
この御心が念佛の信の相をあえてとって下さっている。
その御心を信頼するのである。その御心を聞くのが聴聞である。
念佛は如来の直説法と聞く。専修念佛一行。これを一期貫くのである。
南無阿弥陀佛