むなしさとともに

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自分は何者であり、ここはどこか、が破られる

浄土真宗の救いとは、二種深信であるといわれる。

 
智慧による深信である。深信とは決定、確定である。
 
そこに何かが介在する余地は微塵もない。故に決定であり、
 
確定である。
 
 
自分は間違いなく如来の仰る凡夫であるということ。
 
つまり、決してタスカラヌ身であること。
 
 
機の深信。
 
 
だからこそ、タスケズバオカナイという無限の大悲によって
 
摂取されること。必ず往生せしめられること。
 
 
法の深信。
 
 
ただし真の意味では、
 
願力に依らなければ分からない。聞思せねばならない。
 
佛法は一切分かるものではないと分かるまで聞きぬかねばならない
 
 
小さな自分の命を注ぎ込んでも、必ず応えてくれるのが佛法である。
 
 
釈迦如来は何とわれらに縁の深い如来であるか、不思議に思う。
 
本当に有難く思うし、ご苦労をかけたことだとしみじみ思う。
 
今も経典のことばとを通して、教化してくださる。
 
真の教化者は如来である。われらは教化を受ける者なのである。
 
 
 
救いを別の言い方をすれば、方向が定まることである。
 
正定聚不退ということばで顕されている。
 
方向とは何ぞや。すなわち、
 
『現在地』と『進むべき方向』の二つなり。
 
ここは娑婆であり、堪忍土であること。
 
自分は娑婆に属するものであること。
 
娑婆に属するが故に無常の身を生きていること。
 
ここは娑婆であることを告げ知らせて下さっている。
 
これが浄土、涅槃の智慧のはたらきである。
 
 
そして、向かうべきは浄土であるということ。
 
この身が滅ぶ臨終の一念に、
 
必ず滅度に至らしめると誓ってくださる(第十一願)
 
 
現在の自分の立ち位置が分からぬゆえ、方向が定まらない。
 
すなわち、どうすればいいかがわからない。
 
方向が定まらない故に、今の自分の立ち位置が分からない。
 
ここがどこかわからない。
 
すなわち、自分が一体何者であるかがわからない。
 
 
疑いの本質は、不安定であり、未決定である。
 
 
無明は光明によって、疑いという相で炙り出される。
 
疑いが破られれば、無明もまた破られる。
 
疑いが破られる相を「聞」という。
 
名号が至り届くことで信心が発起せしめられる。
 
思いがけず聞こえる、来たりて聞こゆ、
 
という相をとって衆生如来の願心が届く。
 
疑い、すなわち無明は何度出ても破られる、破られ続ける。
 
往生が遂げられるまで。果遂の誓い(第二十願)
 
それが不退であって、自分が不退ではない。
 
如来の願心が決定しており、
 
不退なのである。如来が不退であれば、それだけで満足なのである。
 
にもかかわらず、
 
わざわざ念佛の相をとってまで寄り添ってくださるとは。
 
無限大悲これなり。
 
まことご親切のきわみ。しみじみと有難く思う。
 
方便法身を尊く思う。
 
法性法身をただ仰ぐ。言葉では表すことはできない如来の尊さよ。
 
南無阿弥陀