如実知見。いついかなる場合においても、そのままを観察すること
いついかなる場合とは、行住坐臥不問時節ということ。すなわち、
いつでもどこでも、自分の都合を通さず、直視すること。
そのままを止観する。そこに実相がある。
実相とは縁起である。縁起とはものの関係の依存性、
すなわち独立独鈷たるものは何一つ存在しない、常に相互の関係性の中で
生起消滅する、と体解する。この心は対象に依って反応する心で、
自分が起こしているわけではない。
我があり、我が起こしているという錯覚のことを顛倒という。邪見とも申す。
実相は空であるが故に縁起に依って相が現れる。
ただし如来は全くの自由なる独立者であり、
すでに縁起生を超えて、常住である。故にその本体を法性法身という。
いろもなくかたちもましまさず、という存在を超絶した存在であり、
ことばもこころもおよばれない真理そのものである。
南無阿弥陀佛