自分の全存在をかけてぶつかっていけば、
必ず法蔵菩薩は本願念佛をもって相応して下さる。
いのちを投げ入れるだけの価値を包含する故に、
釈迦如来滅度以来、二千五百年以上の歴史に堪えて
下さったのだろう。
本当はきっととても不思議なことだろう。
何も分からぬままただ念佛を申し耳に聞くばかり。
信心が起こっても煩悩と我執はこの身が滅ぶまで、決して
なくならない。いよいお深淵である。わが力微塵も及ばず。
和田先生の晩年のお言葉は、そのとおりですと頷かざるを得ない。
世間に埋もれてしまっていて佛を思う心がない、これが現実である。
念佛を聞くこともなく、一日が瞬くように過ぎていく。
だからこそ往生させる、我が名を称えよと如来は喚びづめであると
よきひとは教えて下さる。それを聞き、託すばかり、聞くばかり。
南無阿弥陀佛