むなしさとともに

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課題と並行して進めていきます

課題は課題として、しっかり考えますが、

僕自身は何者にも縛られずに、

 

自由に念佛の信心を確かめていきたいのであります。


流れるままに、徒然なるままに。

 


本当に求めていたこと、今も求めていることは、


まことの自由・まことの平等・まことの連帯。


この三つのまことによって成立する何か、だと思うのです。

 


おそらく、この三つが全て揃った、 これ以外にない世界を真実報土、


無量光明土、と表現なさった、そう思うのであります。

 


連帯とは、見返りを超えて、本当にその人を受け止め、 その人を必要とし、


互いに力を合わせ、成し遂げ続け、超え続けていく、 開き続けていくことであります。

 

 


われらは、迷いの只中であり、 どうしてもここを離れることができない。


ただ、迷いを迷いである、そしてここは娑婆、堪忍の世界である、


そして、自らは正しく如来の仰る凡夫である、と言い訳が


できぬほど照らされる、教えによって、念佛によって、 何度も迷いに帰らしめられる、


すなわち、浄土のはたらきに遇うことはできるのであります。


浄土のはたらきは、迷いを悟りに変えるものではない。


智慧、光明とは、照らし、いだす、みせつける、みせしめる、 はたらきであります。

 

そして、迷いの身に帰す。

迷いに帰るならばいつでも本願がはたらき、待っていて下さる。

 


如実知見。煩悩具足のわれら。

 


そして、サンガはその如来のはたらきが具体的現実として、 人となり、場となり、


聴聞の場となり、成立している具体的現場であります。

 


先生は、なぜサンガが大切なのか、しばらく分からなかった。 こう仰っていた。


しかし、今は何となくその風光、 先達から相続されてきた法の薫陶を感じることが


できる、そんな気がするのであります。

 


如来は、名となり、声となり、ことばにまでなって、 今ここになむあみだぶつとわたしに


顕れてくださる。まこと、無限の大悲、底知れる大悲であります。

 


生き死にの道はただただナムアミダ ただ称えよの仰せばかりぞ(木村無相さんの絶句)

 


南無阿弥陀