むなしさとともに

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なぜ自力では助からないのか③

前回は行いに私の思い、見返りを求めることが必ず雑ざる、と述べました。

 

雑ざることは致命的なことである。

 

これは、実践実地をくぐらなければわからぬことであります。

 

光明のお育てにあずかるということであります。

 

 

では、如来はわれらに何と仰って下さるか。

 

乃至十念若不生者不取正覚(大谷派真宗聖典p18)(佛説大無量寿経

阿弥陀佛の第十八願であります。

 

親鸞聖人は、この誓いのお心をこう述べられています。

 

乃至十念若不生者不取正覚というは、選択本願の文なり。

 

この文のこころは、乃至十念のみなをとなえんもの、もしわがくににうまれずは

 

仏にならじとちかいたまえる本願なり(大谷派真宗聖典p558)(唯信鈔文意)

 

十念というは、ただくちに十返をとなうべしとなり(同上p559)

 

この第十八願の心はあまりに単純であるが故にわれらの概念に合わない。

 

理解できないし、まず当てにしないのであります。

 

簡単すぎるし、虫がよすぎる話にしか聞こえない。

 

だから恐らく念佛ひとつに達している方は甚だ少ないのではないか。

 

少なくても僕自身一番たのみにしていなかったのが、第十八願でありました。

 

ただ念佛とは純粋を表す。雑に対する。

 

やればできる。何とかなる。今までもそうだった。

 

だから何とかなる。

 

これが私のはからいであります。経験則のみに基づく以外根拠なき自信。

 

これはいったい何だろうか。

 

もう少し深くたずねてみたいのです。

 

南無阿弥陀