むなしさとともに

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不退転地

親鸞聖人の恩徳を偲び、各地では報恩講のお勤めがなされている。


昨日は正信念佛偈を拝読した。

 


不退の位に摂取される、このことが人身を受

 

けた所詮であると、しみじみ思う。


不退転とは、菩薩の階梯で表現されるところの四十一段目、


歓喜地において、初めて成就されるものだと聞いている。


十信、十住、十行、十回向までの四十段までは、退転が起こる。


シャーリプトラが外道のものから、目を所望され、自分の目を


差出したのち、彼にわたした目玉を踏み潰された時に生じた、 怒りによって、


それまで彼が積んできた功徳が燃え尽きてしまった、 という譬えを聞いたことがある。


しかし、この初歓喜地において、初めて、 如来地へ至ることが決定されるのである。


歓喜地は不退転地とも言われる。


故に菩薩は大いなる歓喜を起こす。故に歓喜地と名づくのである。


ここから、初めて聴聞の道が開く。此処に至るまでは、 実は全く聞いていないのである。


聞いているつもり、行じてきたつもり、だったのだが、 初めて全く聞いていなかったことが


暴露され、佛法を聞いていこう、という道が開くのである。

 


人はすべからく、幸せを求めて生きている。


おそらくは、懸命に生きていない人はひとりもいないのだろう。


その人なりに、道を求めている。


しかし、悲惨かな。われらは何が幸せなのか、 その本質が分からない。


智慧なき身であるが故に。煩悩に覆われている身であるが故に。


この存在の有様を無明という。

 


智慧光佛はこの無明を破ってくださる。その智慧光佛の名乗りが


南無阿弥陀佛。ここに居る、ともに居る。汝から決して離れない。

 


悲しきかな、自分は煩悩から離れることはできない。 止めることができない。


身は縁であり、因ではない。

 

因はわが心、わが宿業であり、 どこかに因が


あるわけではない。


宿業を因とし、娑婆とわが身を縁として、悪業がやむことがない。


いくら佛法を聴聞しても、全く変わらない有様である。恥ずべし、 傷むべし、と


親鸞聖人は仰っている。


しかし、こここそが、如来がはたらく現場なのである。

 

宿業の身こそが、


如来のはたらきが顕現し、その宿業存在いちにんにめがけて、 本願が成就する。

 


宿業を憎むは我執。宿業を痛むのが本願。 本願は決して宿業を離れない。


この一声に如来の血と汗と涙が籠もっている。


兆載永劫の修行を重ねなければ、


声にはならない。


藤谷秀道先生のことばが響くのである。

 


深く如来親鸞聖人、有縁の善知識方の


恩徳をおもう。

 

如来の本願が不退転なのであります。


南無阿弥陀