主体性は純粋な願望から生まれる。
本願は純粋、即ち一心である。
信心決定とは、存在の回復、
捨てたくなるような人生を奪い返すと、
和田先生は仰った。曽我量深先生は、
物質に精神が支配されているのが、
我々の通常の有様だと仰っている。
如来の本願を信ずることによって、
精神が肉体の支配を受けず、精神が自由に生
きていく、と。
自分の言葉にすれば、息をふきかえした、
生き返ったのであります。
煩悩に隷属しない、躰は縛られても
わが根幹は自由である。
それが如来ともにまします、ということだと
体解します。
今はちょうど三年半が過ぎた。
往生とは、本願の大悲によって、
日々あらたに生まれ続け、深まり続けるもの
であります。発見と驚きと感動と懺悔、
悲しみと歓喜の繰り返しであります。
まことに念佛の尊さを有り難く思う。
南無阿弥陀佛