むなしさとともに

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ボヘミアン・ラプソディー

先日、ボヘミアン・ラプソディーという

 

映画を観た。

 

フレディー・マーキュリーという人、 

クィーンというバンドのお話だった。

 

 

 

感想は、個人的に非常によかったのだが、

 

映画を通して、

 

自分が気がついていなかった、

 

いや、薄々感じてはいた寂しさ、

 

すなわち、自分自身が他者との交流が

 

全くできない存在であるということが

 

暴露された気がする。

 

他者との交流とは、一般的コミュニケーションではない。

 

魂とか心の交流という意味で、まず自分が

 

相手を観察(かんざつ)し、受け止め、

 

理解し、共感できない。どうしてもできない。

 

だから、誰ひとり自分のことを受け止めうる

 

ものはいない、となってしまう。

 

自分が人のことをもののようにしか

 

見れない、ということは、逆に相手も

 

自分をものとして見ていることの裏返しである。

 

お互い非常に痛ましく、悲しい。

 

だが、実相はこうなっている。

 

 

 

 

ただ一人法蔵菩薩だけが立ち上がって下さり、

 

汝と喚んで下さる。

 

あぁ、寂しさという穴がここまで大きく、

 

深いものであったとは知らなかった。

 

人間は迷いを抱えたままいのちを

 

終えていくと聞いているが、本当にどうにも

 

ならない。

 

フレディーという人は、

 

とても寂しかった人で

 

音楽をもって、まことの友を探していたの

 

かもしれない。心に残る映画だった。

 

明日は年末か、全く実感がないが、

 

少し振り返れたらと思う。

 

南無阿弥陀