むなしさとともに

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忍耐は練達を

一年を振り返ると、またたく間だったような

 

気がするが、実りある一年だった気もする。

 

何が実りかというと、言葉にはならないのだが。

 

年末に次の言葉に出会った。

 

苦難は忍耐を。忍耐は練達を。

 

練達は希望を生む。

 

キリスト教のお言葉らしい。

 

練達とは柔軟心だと直観する。

 

叩かれて、叩かれて、叩かれて、叩かれて。

 

耐えて、耐えて、耐えて、耐えて、耐えて。

 

刀、剣は槌に何度も打たれて、

 

しなやかさ、風格、鋭さを

 

高められていく。

 

打たれなければ鍛えられない。

 

頑なな心は、無関心の風雨にさらされて、

 

いくばくか柔らかさを得る。

 

展開の兆しが見える。

 

それは身を通して無関心の残酷さを体解する

 

からだ。身を通して得たことを容易に忘れる

 

ことはない。手が感覚を覚える。テレビで

 

靴職人の方が仰っていた。

 

そういうことだと思う。

 

 

身を通すことで、心が身にしみていくのだろう。

 

曽我量深先生は、往生は心にあり。

 

成仏は身にあり、と仰ったと聞いている。

 

来年は、忍耐、耐えて、堪えきるという

 

ことの奥深さを確かめていきたい。

 

その先に何があるのか、見てみたい。

 

僕に人を救うことはできない。ただ、

 

ともに仏法を聴聞させて頂くことはできる。

 

いつまでいのちが保たれるかはわからないが、

 

縁がある限り念佛の大悲を尋ねていきたい。

 

引き続きどうぞ宜しくお願い致します。

 

今年もこんな妙なブログにお越し下さり、

 

有り難うございました。

 

南無阿弥陀