むなしさとともに

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信心決定後の人生

信心決定後の人生


このようなカテゴリーを追加します。


恐らくこの事について、手探りをされている

方は少なくないのではと思います。

少なくとも、僕はそうでした。


道は定まったようだ。しかし、この後、

どうすればいいのだろう。


また、真宗でもとりわけ語られることはなく、

基本的に、獲信まで、でないでしょうか。



実際の生活に何の意味があるのか。


結論は、信心は深まり続けて下さるもの、と

いうことであり、独りよがりで終わるものでは

ない、ということです。

これは、自身で実験しているところであり、

進行中の事柄であります。



具体的には、


聴聞を繰り返す。生活で聴聞したことを

確かめる、この道程を経て、衆生が見えてくる。

いよいよ煩悩具足であること、同時に、

だからこそ、

念佛せよという仰せがかかっていること。

こういうことが少しずつ、明らかになる。

それは、何時でも、今、ここで、念佛を申すことに

つづまります。

念佛なき聴聞聴聞なき念佛では相互に

不十分でありましょう。


このことは、即ち、念佛往生という問題だと

察します。

こういう不透明かつ混沌とした時代に、

念佛の信心はどういう働きをして下さり、

信心決定した者はどういうことを思い、

生きていったのか。

恐らく、この「むなしさとともに」という

ブログに意味があるとしたら、

こういうことを記録していく、道程を記していく、

このような役割があるのではと思うのです。

まぁ、運営会社の存続が前提でしょうが、

それはいかんともしがたいし、

なくなればなくなるまでとも思います。


また、あくまで、僕個人の道程であり、

普遍性はありません。一人一人違う道を

通るでしょう。


ただ、一ついうと、このブログの一番の読者は

恐らく僕自身だと思います。時々立ち返ると、

誰が書いたのだろうと思う言葉があります。

不思議なことです。自分のために書いている側面が

あります。




過去の記事から少しずつ、

カテゴライズしていきますので、何かあれば

気軽にコメント頂ければと存じます。

聞法の行き詰まり、疑問、お叱り、

課題を共にし、お聖教に耳を傾け、考えたく、

存じます。



共に助けられるわれら、このことは肝要であり、

決して忘れてはならぬことです。


共に往生ということを考えていきたい、

現実は残酷でありますから、

「ともがら」が必要であり、

それがサンガでありましょう。


僕は上下ではなく、水平に、ともに居ます。

ただ一人の苦悩を抱えた人間だからです。


南無阿弥陀