とるに足らない会話。
掲示を見てくれたこと、好きなドラマを
教えてくれること。アドバイスを聞き入れて
下さり、具体的に物事が変わる可能性を
感じること。
音響忍という言葉もある。何を感受するかは、
自分次第なのだろう。
ストロークという概念がある。
存在認知の一単位だったろうか。
つまるところ、人を認知し、実際に
声をかける、やりとりをする、ということだ。
本人は何も思わないかもしれないだろうが、
僕にとっては、有り難いことだった。
念佛はいうまでもなく、大切であり、
憑むべきは阿弥陀如来、依るべきは念佛一行。
揺るぎないことである。
しかし、念佛が生きてはたらく場所は、
この自分の身なのである。この身にはたらいて
下さるというならば、具体的には、自身の生活、
即ち社会生活、人間関係に、言葉に、眼差しに、
忍耐に、現れなければ、本当に生きたはたらきで
ある、とは言えないのではないだろうか。
諸々の衆生と共に、時を過ごし、涙を共にする。
共に苦悩の衆生である、ここに大乗の本質が
あり、本願が僕を、他の衆生も諸共に
支えて下さるのではないか。
大悲は無辺なのである。
諸仏称揚の願。誓いの念佛。
至心信楽の願。機に起こる信心。
また共に尋ねていきましょう。
南無阿弥陀佛