むなしさとともに

一切の悲しみが尽き果てるまで、共に歩む twitter(@oujouwogosuru)

追記あり 仏法の血肉化

現実化しない仏法など空想に等しい。汗になり、眼差しになり、涙になり、苦悩にまでなるのが仏法でしょう。僕はそう思う。だから試行錯誤する

(2020.4.6ツイート)

 

この文をtwitterの固定文にしています。

 

↑この投稿をした時のものなので、変わっている、元に戻る可能性があります。

ご容赦下さい。


結局は「表現」に帰結すると思います。

 

私は仏法を聴聞している。

 

念佛している。仏を信じている。

 

悟りを開いた。

 

 

ん、何ぞそれ?って思うのです。

 

 

凡夫にすぎないということを言い訳にして、

 

心境にとどまることを許さない。

 

もしも、如来の大悲が己に至り届いたならば

 

必ず何かしらの兆候が現れるはずだ。

 

それは人によって違いがあるだろう。

 

しかし、やはり静から動に至り、また

 

静に戻りつつ、動を繰り返していく。

 

信とは能動であり、創造的なものである。

 

先生の言葉。

 

僕は今もまだ道を求めている。

 

終わりなき歩みと和田稠先生は往生を

 

表現された。往生は始まりがあり、

 

必ず遂げられる性質をもつ。

 

まだまだ聞き続けていかねばならないと

 

思うのです。

 

助からぬ身を抱えているのですから。

 

往生とは反復であり、反復とは深まって

 

いくものだと思っています。

 

そこには紆余曲折があり、苦しみや悲しみ、

 

痛みや孤独もあるでしょう。

 

だからこそ、練達し続けるのでしょう。

 

僕は思います。こんな悲しくて、

 

辛いことはこれで終わりにしたい、

 

全ての悲しみや痛みが尽き果てることを

 

心から祈る、だから、自分にできることを

 

したい、と。たとえ全く不完全なもので

 

あったとしても。煩悩にまみれたことで

 

あろうと。

 

 

 

正定聚不退転というものは必ず仏果に至る。

 

その道程を往生というのでありましょう。

 

往生は道だと思う。人間は道を求めている。

 

貴方は道がありますか?


2020.05.04追記


道をわかったように書いていますが、


現実は間違いと後悔を、


繰り返しています。煩悩もやみません。


立派なことは何一つできません。


本当ならこれは絶望でしょう。


本願不思議で、

これでは終わらないのです。


そんなお前だから助ける。浄土に


往生させ、仏に仕上げる。だから、


心配しなくていい。


その如来からの言葉が南無阿弥陀佛。


我が名を称えよの仰せ。


呼応し念佛をたまにする。


現実を捨てずにまたとぼとぼとゆく。


信心とは反復し、深まっていく。


如来回向の他力の信故に、凡夫の


心に左右されない。常に往生させようと


はたらいて下さる。


仰せに帰って念佛を申す。


そんなお前だからこそ、

私は見捨てない。


何としても往生させる。


この言葉が浄土のはたらきでしょう。


国土の名字、仏事を成す。


本当に失敗ばかりで、自分の凡夫性を


思い知らされます。