むなしさとともに

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何を求めてきたのだろう

今更ながら分からなくなってきました。

 

自分は何を求めてきたのだろう?

 

僕は四つの頃から記憶があるのですが、

 

空虚感をずっと引きずってきました。

 

今もそうです。

 

厳密にいうと、

 

以前:生きていること、

存在することそのものの意味のわからなさ

 

今:存在していることの寂しさ、自分の愚かさ、生存していることの悲しさ

 

こうしてみると、質が変わっているような

 

気がします。よくわかりません。

 

意味のわからなさというよりは、

 

わかりあえないこと、奪わずにはおれぬこと

 

の悲しみでしょうか。うまくいえませんが。

 

コロナウイルスの影響で有縁のお寺に

 

赴くことができません。先生から直にお話を

 

聞き、姿を見、声をお聞きすることは

 

当たり前のことではなかったのだなぁと

 

思います。もう二ヶ月聴聞しておりません。

 

こうすると、自分は何をしてきたのだろう。

 

何をしていくのだろうと思います。

 

信仰とはどういうことだろう。

 

ただ、今、明確にいえることは、

 

大悲とは愛である、ということだと

 

思います。無条件の無上の愛を大悲と

 

いって差し支えないと思います。

 

根本的に、一切の有情は如来から大悲されて

 

いる。大悲とは名詞ではなく、動詞であり、

 

永遠に現在進行形であるもので、

 

ありましょう。

 

念佛とは阿弥陀如来からの100%純粋な

 

直説法である。

 

先生のお言葉を、何度も

 

反芻しなければなりませんね。

 

丁寧に読めていなかった本を、少しずつ

 

読みたいと思います。