むなしさとともに

一切の悲しみが尽き果てるまで、共に歩む twitter(@oujouwogosuru)

弱い者の祈りと表現

今の正直な気持ち、人間はしんどいな、と。

 

こう思っています。

 

どうして、意味のないことに拘ったり、

 

お互い一人の人間に過ぎないのに、争ったり

 

衝突したりすることが止まないのだろうと。

 

そして動植物を摂取しなければ保てない身。

 

煩悩と呼ばれる心のはたらきに束縛されて

 

いる在り方からどうしても離れられない。

 

小さい頃から、順位をつけられ、点数を

 

つけられ、生涯、評価され続けていく。

 

僅かばかりの金と名誉を求め、限られた椅子

 

を取りにいき、負けた人は日の目を浴びず。

 

金に困窮し、失敗すると、立ち上がれぬほど

 

叩き潰す社会の在り方。そして、自分を

 

信じ、怯えと不安を抱えて、齢をとって、

 

死んでいく。

 

なんだこれ、と思うのです。

 

こういうことから目を背けず、むしろ

 

凝視しても、なお、現実に反抗していく

 

方が、佛、菩薩なのではないかと

 

思われます。

 

自分は全くの凡人、凡夫でありますが、

 

やはり、自分だけが豊かになり、

 

一方で、辛い目に遭う人がやまないと

 

いうのは気持ちが悪い。

 

故に、自分のはたらきを多少削ってでも、

 

他の人に幾ばくかの恵みがもたらされる

 

ように祈り、毎日を過ごしている。

 

それはモノだけでなく、姿勢や眼差し、

 

柔らかい言葉、身体の向き、声のトーン、

 

話しかけるタイミング、言葉遣い、

 

礼儀、文面など様々なすがたで祈りを

 

表現する。

 

この表現は他者に伝わるか伝わらないか、

 

良いか悪いか、意味があるかないか、

 

ではなくて、せざるを得ないのであります。

 

何故なら問われているのは自分という

 

存在全体であり、問題は自分だからです。

 

立派なことは何一つできません。

 

煩悩が起こるのを止めることもできません。

 

それでも、ね。

 

止まないものを本願というのでしょう。

 

僕は自分が人間であるのは、悲しいですし、

 

とても痛ましいです。

 

だからこそ、悲心招喚、大悲は

 

喚びづめに喚んでくださるのでしょう。

 

わが名を称えよ、と。