迷いの種を薫習しっぱなしで悪循環している
ところに、悟りの種子・悟りの香りを薫習
していけば、アーラヤ識は変わる、変わりうる。
本質的に私たちの心は実体ではなくて、
種子の集まりとしてある。
だから、種子の集まりの質を次第に
変えてゆき、やがては根本的に変えていくと、
心自体が、変わる。
(唯識のすすめp193 )
薫習という言葉の響きが好きです。
お香が知らぬ間に染みついている。
自分の意図ではない。香りのはたらきであります。
大切なことは、お香の焚かれる場所に身を
置く。常に香りを身に浴びておられる師から
直接、弥陀の本願念佛の大悲を聞かせて
頂く。
そうすと、知らぬ間に香りの方から、
薫習して下さる。
自然なる大悲のはたらきを現すのが
この薫習という言葉であります。
美しく、無理のない言葉だと感じています。
以前の薫習の記事は反復の意味を
記していますが、反復というよりは、
香りのはたらきは自然なるはたらき、
なんとわはなしに、という感じです。
また変わるかもしれませんが、変われば
いいと思います。
歌を覚える感覚に近いかもしれません。
何度も歌ううちに、歌詞や抑揚、強弱などを
いつの間にか覚えている。
繰り返すうちに。