摂取のうえには、ともかくも行者のはからいあるべからず候う。浄土へ往生するまでは、不退のくらいにておわしませ候えば、正定聚のくらいとなづけておわします事にて候うなり(ご消息集 親鸞聖人 p590大谷派聖典)
助かるとは、どういうことか。
実は助かるのではない。
助けられて往生するのである。
助けられることを摂取不捨という。
摂取不捨を不退という。
何が不退なのか。不退に二つの側面あり。
一つに、自身が決定して凡夫であるということ。
二つに、だからこそわが名を称えよという
大悲の誓願がかかっている故に必ず助けられ
ること、
その証が今、口に称え、耳に聞こえて下さるところの南無阿弥陀佛であること。
もはや、念佛の一行のほかに道なし。
諸仏善知識のおすすめ下さる、この念佛往生の道に
全託し、赤子丸腰の如く、ただ佛の名を称え
させて頂くばかり。
このことを行者のはからいあるべからず、と
仰られていると感ず。
決定とは動かないということ、一、ということ。一故に躊躇なく、戸惑いもなし。
見えているのは、目のはたらきではなくて、
光が至り届いている故に、見えるのであります。