最近はTwitterを見ることが多く、色々な人のつぶやきを見ています。
それを見て思ったことは、どうにもならないことが存在するということです。
どうしてその人はそんな目に合わねばならないのか?どうしてそんなことになってしまうのか?
答えは、全く分からない、のであります。
高校3年生は身近にはいないのですが、成果を披露すべき催しの中止、始業が遅れてしまったことへの配慮のなさに対する怒りを、彼、彼女たちのツイートから感じました。
コロナは終わっていないのだと改めて感じた。
ここで採るべきことは一つ。
現実を直視すること、だと思う。
残念ながら、政治と現実の社会に生きる僕らの肌感覚の間には埋められぬ溝がある。
政治家が本当に国のために、国民のために判断し、行動する人たちならば、ここまで酷い社会にはならなかっただろう。
他者への配慮の欠如。
無言で同調を強いる排他的で陰湿な国民性。
問題の先送り。自分のターンで決着をつける気概がない。ことなかれ主義を感じる。
ことなかれ主義は、偉い人にそのきらいを感じることが多い。すなわち、自分が担当する間に面倒な波風を立てたくないのだ。
つまり、現実が変わるには、全体の変革が必要であり、短期的抜本的な変化は期待できない。どうしても時間を要するといいたい。
ならば、今は辛抱し、今できることに専心する、流れに適応するよりないのではないかと思う。
あまりにも便利さを享受しすぎて、辛抱、忍耐を身につける機会が極端に減っているのではないかと思う。
スマホで検索して、文字ヅラを見るのと、
本当に身につけるということは別のことだ。
世の中には、あまり優しい人はいない。
でも、だからといって、自分まで、同じ色に染まってしまいたくない。
だから、抗うしかない。目の輝き、すなわち、大志を失わないまま、自分にできることを悪夢のような現実に居りつつ、耐え忍び、一貫した行動をとり続けるしかない。
そして、大人になったとき、然るべきポジションに就いた時、今まで味わってきた苦渋は自分で終わりにするために、それまで培ってきた力を奮うのである。
自分が味わってきた苦しみを他者に味あわせるなど、愚かなことだ。
苦渋を、辛さを、孤独を、痛みを知ったからこそ、終わらせる、終わらせたいと願う。
そのために、精一杯現実に抗う。まだ目の輝きは失わない。諦めない。諦めきれない。
そのために技術や知識を学び、実践していく。
僕は、今も現にそういうことを模索し続けている人を何人も知っている。だから、僕もそうありたいと思う。あの人たちはかっこいい大人だと思う。
大乗とはそういう道である。
辛さ、悲しみ、痛みを知っているからこそ、その人の言葉や眼差し、佇まいは一貫して柔らかい。
身に通す学び方を体解という。
自分の人生を煩悩から奪い返すことを信心決定という。
そこから、真の生き方、即ち往生が始まる。