むなしさとともに

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なぜ聞法するのか

真宗は聞くことに極まる、と仰られる。

 

聞というは、衆生仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞というなり、と親鸞聖人は教えて下さった。

 

具体的な衆生とは、僕のことであり、他の誰でもない。他の方は助かった人かもしれないが僕は違う。

 

助からぬ者を必ず救わずはおかない、という本願。

 

これは、僕と無関係なものでもないし、おとぎ話でもない。具体的現実的に、今、ここにいる僕にはたらいてくださるはたらきである。

 

今、ここに存在している助かりようがないものを具足した自分に、だからこそ、助けさせてくれよ、という無限、無蓋の大悲が常不断に注がれている。

 

はたらきづめにはたらいてくださるかたの名前を南無阿弥陀佛と申す。

 

この南無阿弥陀佛を称え、聞かせて頂くばかりで、外になにもありません。

 

汝を助けずばおかない、必ずわが国に生まれさせるという声が南無阿弥陀佛。

 

このいわれははてもなく、そこもなく、きわもないので、この如来の別名を不可思議光佛とも申します。

 

生涯南無阿弥陀佛のいわれ一つを聞き抜けよ、と善知識が仰せ下さることをそのまま頂き、この聞名の一行を相続させて頂きます。

 

そのために、日曜の午後、お寺に足を運び、聴聞の場に身を置かせて頂くのであります。

 

仏様のはたらきを悪趣自然閉、閉塞諸悪道と申します。