たとえば金剛は百千劫において水中に処して、爛壊し異変なきがごとし。菩提の心もまたかくのごとし。無量劫において生死の中·もろもろの煩悩業に処するに、断滅することあたわず、また損減なし。
(顕浄土真実教行証文類 信巻 親鸞聖人 大谷派真宗聖典p2 2 2)
阿弥陀如来回向の信は、煩悩にもさえられず
悪業にもさまたげられず。
涅槃の真因はただ信心をもってす、との
親鸞聖人のお言葉。
煩悩が信を侵食することはできない。
質が違うからだ。信は浄土に属すると先生は
仰った。
信のはたらきは、汝正に凡夫なり、と信知せしめて下さるもの。
そして、だからこそ、決定してわが浄土に必ず往生せしめん、という法のはたらきも同時に信知せしめて下さる。
凡夫であると知らしめられることが、救いの中身である。
これはどうやっても助からない、道がないということと同義であるが、
不思議なことに、決定とは安心なのだ。
底まで落ちると、大地があり、足を下ろすことができる。
常に念佛せよという本願に立ち返ることが、
念佛往生の中身である。
往生とは反復である。
無限なる反復をもって涅槃に至らしめられる。
慈眼と大悲方便で決定して、浄土に往生せしめられる。
大悲は脈々と伝えられるのだ。
諸仏の伝統によって。諸仏とは如来の本願に
助けられ、感動していった方々のことであります。